「あの時、あの人が生きていれば、歴史は全然違ったはず!」
2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」に合わせて、太閤・豊臣秀吉の弟、「豊臣秀長(とよとみ ひでなが)」がもし後10年長生きしていたら…を妄想してみました。
秀吉の影に隠れがちですが、実は彼こそが豊臣政権を支えていたと言われています。彼が亡くなったのは1591年。その後、豊臣家が坂道を転げ落ちるように滅んでいったのは皆さんもご存知の通り。
では、もし秀長があと10年長生きして、関ヶ原の戦いが起きるはずだった「1600年」を超えて生きていたら?今回は、そんなワクワクする妄想にお付き合いください!
秀長の実績・評判
まず、「秀長ってそんなにすごいの?」という方のために、彼の実績・評判を少し振り返ってみましょう。秀吉の弟だからという理由だけで出世したわけじゃないんです。
九州・四国を平定した「軍事司令官」
秀吉が天下統一へ向かう中、四国攻めや九州征伐で総大将を務めたのは秀長でした。特に九州攻めでは、兵站(補給ルート)の確保から現地の根回しまで完璧にこなし、なんと20万もの大軍を指揮しています。
「兄貴はドーンと構えててよ、現場は俺がなんとかするから」そんな頼もしすぎる弟だったのです。
大名を魅了する「気配りの外交」
九州の大名・大友宗麟が大阪城へ来たとき、彼は秀吉に会う前にまず秀長を頼りました。宗麟は国元への手紙で「内々の儀は、宗易(千利休)か宰相(秀長)に相談するように」と書き残しています。
気難しい秀吉への取り次ぎは、すべて秀長がクッションになっていました。彼がいたからこそ、外様大名たちも安心して豊臣政権についていけたのです。
寺社も商人も味方につける「内政手腕」
彼の居城だった大和郡山(現在の奈良県)。ここは興福寺などの強大な宗教勢力がひしめく難しい土地でしたが、秀長は彼らの特権を認めつつ、うまく手なずけて統治しました。 さらに、検地(土地調査)をスムーズに進めたり、紀ノ川の水運整備を行って商業を発展させたりと、行政官としても超一流。「100万石の太守」として、申し分のない実力者だったのです。
「秀次事件」という悲劇は起きなかった
さて、ここからが本題の「IF」です。秀長が生きていれば回避できた最大の悲劇。それは「豊臣秀次(秀吉の甥)の切腹事件」でしょう。
史実では、秀吉は我が子・秀頼が可愛すぎるあまり、すでに関白になっていた甥っ子の秀次を追い詰め、一族ごと処刑してしまいました。これが豊臣家の「自滅」の始まりです。
でも、秀長おじさんが生きていたら、絶対にそんなことはさせません。
「兄者、正気か!?秀次は豊臣の未来を担う大事な跡取りだぞ!」秀吉に対して、真正面から意見を言える(そして秀吉が言うことを聞く)唯一の人間が秀長でした。
秀長なら、こんな折衷案を出したはずです。「秀頼が大人になるまでは秀次に関白を任せて、秀頼が成人したら政権を譲る。そのための誓紙を書かせよう」
こうして秀次が生き残れば、豊臣家には「立派な成人した当主」が存在し続けます。これだけで、のちに徳川家康がつけ入る隙は9割なくなります。
あの「石田三成」と「加藤清正」が仲良く?
関ヶ原の戦いの原因になった、武断派(加藤清正ら)と文治派(石田三成ら)の対立。これも秀長がいれば「ちょっとした派閥争い」で済んだはずです。
なぜなら、彼らはみんな秀長が大好きだったから。
清正や正則といった荒くれ者たちは、若い頃から面倒を見てくれた秀長に頭が上がりません。一方で、理屈っぽい三成も、実務能力の高い秀長を心から尊敬したはず。
もし二人が喧嘩を始めても、秀長が「こら三成、言い過ぎだぞ。清正も、すぐに手が出るのは悪い癖だ。ほら、今日は俺の顔を立てて仲直りしろ」と一喝すれば、二人とも「ぐぬぬ……大納言様が言うなら」と矛を収めたでしょう。
秀長は、彼らをつなぐ存在でした。彼の下でなら、三成の頭脳と清正の武力が協力し合う、最強の豊臣政権が維持できたはずなのです。
家康はどう動く? さすがに手が出せない!
そして気になるのが、徳川家康の動き。史実では秀吉の死後、好き放題に暴れまわりましたが、秀長が生きていれば話は別です。
秀吉が亡くなった1598年時点で、秀長はまだ50代後半。彼は大和・紀伊・和泉という、大阪城の喉元にあたる超重要エリアを支配する110万石の大大名です。
家康がいくら野心を持っても、
- 正当性: 「太閤の弟」という圧倒的なブランド力
- 軍事力: 100万石の動員力+恩義を感じている諸大名
- 政治力: 朝廷や公家との太いパイプ
この全てを持つ秀長が「秀頼の後見人」として睨みを利かせている限り、家康はうかつに動けません。むしろ、家康は秀長の五大老の筆頭として、豊臣政権を支える「頼れる重鎮」のポジションに収まるしかなかったでしょう。
結論:江戸幕府は生まれず、もっと自由な日本に?
もし秀長が1600年頃まで生きていたら…。関ヶ原の戦いは起きず、もちろん徳川幕府も開かれません。
代わりに続くのは、二代目関白・秀次と、それを支える三代目・秀頼による「豊臣長期政権」です。
豊臣政権の特徴は、商業重視・海外交易重視。「鎖国」は行われず、大坂や博多がアジア貿易のハブ港として発展し、今よりもっと国際的で、商人の力が強い日本になっていたかもしれません。
「兄の夢を、弟が現実にする」
秀吉が広げすぎた風呂敷を、秀長が丁寧に畳んで形にする。そんな理想的な兄弟経営が続いていたら、日本の歴史はもっとダイナミックなものになっていた気がします。
みなさんは秀長が生きていたら、今の日本はどうなっていたと思いますか?
